小湊美和~民謡のチカラ~

ここではコミに触発されてあらためて民謡というもにに出会った私が、少しずつ勉強しながら民謡について考えたこと、さらには小湊美和の唄う民謡についての勝手な思いなどを書きつづります。

それぞれの民謡の紹介は小湊美和全作品indexから

「民謡」をやってるわけではない

民謡一家に生まれたからには、コミにとって民謡とは環境そのものであり、ものごころつく前から、言葉を覚えるのと同時に唄いはじめて舞台にも立っていたという。それゆえに小湊美和という存在と民謡は不可分なものなのだ。

かえってコミにとって民謡は特別に意識されるものではなく、ポップスも民謡も
「うた」のひとつのありかたとして自然に身についているようだ。

一方で民謡家元として伝承の役を担っていくという立場では、師である両親から厳しく鍛錬されてきた。その結果獲得した「声」はなによりの財産と言える。

小湊美和は舞台では「まだ民謡歌手をやっているわけではない」と思っているようだ。民謡を素材とした歌もうたう「ヴォーカリスト」というのが今のコミのあり方なのだ。

コンテンポラリー J−トラッド

小湊美和の民謡(2)

コミの民謡を表現する言葉として、いい言葉を思いついたと思ったのだが、念のため調べてみた。そうしたら、NHKの情報誌でコンテンポラリー民謡という言葉が、「どんとこい民謡」でのコミの紹介で使われていた。一方、J-tradは、なんとコミの弟、小湊昭尚さんの参加する和楽器ユニット「ZAN」を紹介するサイトで使われてる言葉だった。
だからまったく私のオリジナルではないけれど、これからコミの民謡の世界をこう捉えてもいいかなと思っている。ま、ちょっと長いので、J−トラッドでも良いかもしれないけれど。

トラッドというジャンルは、「洋楽」の世界ではどちらかと言えば、古典(=クラシック)よりはPOPに近いものだと思う。伝統芸能的な正調トラッドの他にも、コンテンポラリートラッドと言えるスタイルがいろいろある。例えばアメリカの白人系音楽は、ブルーグラスからカントリー、POPまで連続した音楽だし、アイリッシュトラッドはPOPといささかの断絶もない。

日本では、西洋的なものこそが洗練されたカッコイイものだという観念が近代以降続いてきたために、POPミュージックの世界は常に洋楽をめざしてきたわけだ。そしていまや、その目標はかなり達成されてきたような気もする

私たちはもうすでに洋楽コンプレックスを超えられる時代にやってきたと思う。これからは堂々と私たちのトラッド(=民謡)も、今に生きる私たちのPOPとして歌えるときが来るのではないか。そんな日がほとんどそこまで来ているような気がする。

コミは、ラジオの番組などで、民謡をうたうときには別人格が降りてくるというような事を言ってるのだが、私は小湊美和という歌い手の中では本質的には民謡もポップスも断絶してはいないのではと感じている。そこに共通するのは声のチカラを最大限に生かしたうたという表現にかける真摯な思いが貫かれているからだ。

アレンジ民謡の世界

小湊美和の民謡について(1)

どんとこい民謡で毎回披露されるコミオリジナルのアレンジ民謡。もっと真剣に評価したいと思っているのですが、何しろ私自身が民謡についての素養が皆無に近く、興味を持っていろいろ勉強しようにもまとまった資料がほとんど無いので、まったく感覚的にしか捉えられていません。

それでも、単に若い人にも親しめるようにとか、音楽的にいろいろ試してみるというレベルを超えた、オリジナルな民謡の表現として、あるいは民謡ということを意識しなくても、音楽として歌としてもうそれだけで充分世界に通用するような内容を持っていると思います。

最初に外山節を聴いたときに、私はもうかなりやられてしまったわけですが、残念ながら「どんとこい」のオンエアがなかなか見られず。ビデオも録画できなかったりで、まともに聴いているのは最近数ヶ月だけというのがちょっと情けない。いつかどこかでなんとかして、「どんとこい」の全録画を見るというもの、今やライヴ初参加にならぶ私の課題のひとつです。

これは私の想像なのですが、民謡というのはもともとは歌だけで、どんなアレンジにするかということは決まってなかったんじゃないでしょうか。労働歌的なものはもちろん、そうでない歌でも、多くの場合アカペラだったと思うし、せいぜい手拍子くらいのもんでしょう。それが、近代になって「芸能」として洗練されていく課程で、尺八とか三味線とかがつかわれるようになった。

だとしたら、今私たちが聴いている伝統芸能としての民謡も、ある時代にできあがった「アレンジ民謡」なわけで、21世紀の民謡のスタイルとして、今コミがやっていることは民謡の伝統の延長上にあるのではないか。

ポップミュージックというのは、いつでもどこかにエスニックな要素を取り込みながら、新たな生命を生み出してきたと思うので、これから先も、コミの歌には民謡という要素がかならず大きな力になっていくことは間違いないと思います。

もしも小湊美和論をやるなら、かなり勉強しないとならないなと痛感しているところでした。